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																		| 「G街愛」あるいは「Gスポット」37年史 |  
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																		| 第4回「ぷーさんの有名人たち」 |  
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																		| で、どのくらい有名人が来たかというと、富永一郎先生〜はらたいら先生まで、とにかく漫画家先生が多かった。 あと岡本太郎・黒田征太郎・大宅壮一・吉行淳之助・安岡章太郎・田中小実昌氏あたりが重鎮客の代表だった。
 
 五木寛之先生が直木賞受賞を待ちつつ呑んだのもこの店。
 1966年のことだそうだから、恐らく「直木賞受賞待ち呑み」パターンの草分けだったはず。
 「受かればドンチャン〜だめならヤケクソ〜花も嵐も仲間と呑もう」の粋な作法だね。
 
 「ピンがキリで呑むおしゃれ」とは、岡本太郎(敬称略)が、例えば司馬遼太郎など、東京来たら銀座が相場の大物文化人を引っ張ってくる「キャッチ」(注「キャッチとは何か」参照・但し未稿)トークだったそうです。
 
 
 そのさすがの「プー」でさえ 美空ひばり様がお見えになりノリノリで歌ってお帰りになられた時は、そりゃもう大騒ぎだった。でも折角ママが教えてくれたのに、僕行かなかったのね。
 「そんなミーハーじゃないもん」的若気の気取りで「行けなかった」んだねぇ。公開する。今、後悔してる。
 酔って相撲を挑んだ隣の男が 北の湖に勝った数日後の鷲羽山関だったことがある。当時、ヒョ〜ドル対抗の日本人は彼しかいないと噂されてた(う・そ)くらいの、史上「最小・最強の力士」である。
 関取、けっこう本気で「やるか!?」と言ってたとかで誰かがとめてくれたんだって。(よかった)
 
 紀伊国屋の 田辺茂一社長は、いつも肩掛け鞄(大)に「ピー缶と特用マッチ箱」入れてて、「タバコとマッチの品切れの心配がないんかぁ、この人何てリッチ〜」と羨ましかった。(そんなことしか覚えとらんのかい!)
 
 でも正直、有名文化人だからって気付かないし、意外と顔も分らないもんだった。
 
 だからママや常連さんに耳打解説・指導してもらい、対文化人作法をご指南いただいたものだ。
 ところで話変わるけど、君、知ってる?
 
 「日本で一番美人酒飲みの多い県は高知だってこと。」
 日本一ナイス「女のんべ」が多い高知のことはね、「プー」のおかけで分ったのよ。
 
 つまりね、当時の常連中の常連「はら先生」はね、なにせ綾南高校の魚住まで「はらたいらさんに3000点!」(スラムダンク参照)って言うくらい、まさに「はら時代」だったのね。
 
 だもんで、もう高知出身の「はらさん」てば「高知の女の子s」(複数形に要注意)モテモテ。
 で、おかげで、僕もすてきなハチキン・ギャルと楽しいお酒呑めたもんやった。
 
 すべては有名文化人/
 はらたいら先生の「お・か・げ」。
 
 やっぱ「いい女」の、しかも「ノンべ」が集まる店って、いいもんだよなぁ〜。 (しみ・じみ)
 有名人がたくさん来る店は、なんやかや言ったって、
 おなごの「量多くして、質高し」やった。 (目が遠くを見てる。)
 
 でもね、いいことばっかじゃあ〜ないよ。
 僕の連れてった子が「コミさん」にとられちやったこともある。   (ちょっと肩なでられた位だけどね。)
 
 でもやっぱ誰も勝てん
 こと女に関しちゃあ、「田中小実昌 コミさん」にゃあ〜、やっぱ〜誰も。
 「G街で女にもてる男」歴代トップだったねぇ。 (うまい!我ながら最高の追悼辞)
 ず〜と後日、コミさんが浅草・隅田川桜橋近くベンチで、女の人に「あ〜ん」させられ、その手作りお弁当を食べさせてもらってるそばを通りすぎたことがあった。その時、「さ・す・が」と思ったね。
 「女に持てる極意」 それは「持てよう」でなく、勝手に待たせ放題「持たれよう」という、
 「癒やし系ぬいぐるみ」境地にあり!だったのですね。
 
 でも、G街「婆様専科」だったら、阿佐田哲也先生が一枚上だった。
 何時でも・何処でも・すぐ寝ちゃう。そこが可愛いんだって。
 「前田」のママは、「他所で呑むのはいい。それは許す。」
 「BU〜T〜!」・・・
 「寝るんならうち(前田)で寝んかい!」ってね、怒ってたもんだ。
 当時「麻雀放浪記」がマイ・バイブルだった僕は、そんな先生を心からかっこいいと尊敬したもんだった。
 
 ことほどさように、このように、若ぞう時代に有名人と会えたことは実にいい勉強だった。
 が、その阿佐田先生亡く、前田も亡く(前田孝子さん1991年3月18日逝去)、しばらく「しの」で寝ていたその「コミさん」までが故人となりました。
 
 
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